神戸ことはじまり

今では当たり前のサービスが実は神戸発だった!?

 今回の“神戸ことはじまり”は今では公共交通機関のほぼ全てに設置されている“優先座席”高齢者の方、身体の不自由な方、乳産婦・体調の優れない方が優先的に利用して頂く別名オレンジシート。普段、電車やバスで移動をする私たちにとって、当たり前の光景として存在しています。
実は、この優先座席制度を日本で初めて導入したのが“神戸市バス”です。今回は、私たちが安全・安心に市バスが利用できるように、毎日市バス車両の管理にたずさわっている神戸市交通局の前田様にお話をお伺いしました。


きっかけは「人間環境都市宣言」

 "オレンジシート"発祥のきっかけは、昭和47 年にあります。この年に神戸市では市民の名において『人間環境都市宣言』が行われました。これは、市民・市・事業者の総力を結集して、神戸市民の愛する郷土「神戸」を人間環境都市にしようとするものでした。つまり人に優しい街づくりを推進しようとする宣言です。神戸の街を「くらしよい街に・・・」そんな願いが市バスにも採り入れられ、その一つがオレンジシートを生みだしました。



はじめての「優先座席」の導入

 昭和47 年の11 月に、全車両を対象に車両中ほど右側の1 人掛けシート2 座席を、高齢者の方や身体の不自由な方、乳産婦・体調の優れない方たちへの“優先座席”とするための措置が行われました。これは福祉都市としての姿勢の現れであり、優先座席のカバーの色合いから“オレンジシート”と名付けられたそうです。また、“オレンジシート”は、市バスに乗車するお客様が、それを必要とする方たちへ善意で譲ったことから“善意の席”とも呼ばれました。


神戸らしさが溢れる、現在の優先座席

神戸市バスが導入した優先座席の色がオレンジだった理由は、神戸の六甲山の美しい自然を表現している“緑色”の座席とコントラストを保つ事ができるためにようにするためでした。
しかし、その後の研究で総務省より公式に、色覚などに何らかの障害を持たれている方々が判別し易い色が発表され、神戸市バスの優先座席は“水色のシート”に変わりました。最近のバスで写真のような座席を見かけませんか?これが今日の優先座席です。

さらに現在の優先座席には、「より神戸らしさ」を出すためにポートタワーや海洋博物館、異人館などの絵が描かれています。さりげなく、神戸らしさが描かれた一つ一つの椅子に、神戸市民として愛着を感じると同時に、神戸市バスの方々の細やかな配慮を感じることができます。

今日の日本の電車やバスで、当たり前のように採用されている“優先座席制度”。その発祥が神戸市バスと言われていることは、ご存知でない方のほうが多いのではないでしょうか?

編集後記:私が知らなかったバスの秘密

今回、いつもお世話になっている神戸市バスの取材をさせて頂いて、私が抱えていた謎がついに解決されました。それは、

“ バスの一番後ろの席が何で他の席よりも高い位置にあるのか。”

小学生の頃などはバス全体が見渡せる一番後ろの席に、真っ先に座わっていた記憶がありました。しかし、大人になった今、改めてバスに乗るとあそこの下には何があるのかなー?とか、あえて高くしてあるのかなー?などと気になる存在になっていました。

そして、今回の取材でそんなバスの一番後ろの席の下にあるものを、「安心・安全」のために一生懸命バスの点検作業されている方々の休憩時間を見計らって、見せていただきました。なんと、バスの一番後ろの席の下にはエンジンがありました!
この事実、ご存知でない方のほうが多いのではないでしょうか?私の上司は「そんなの知ってるよ。」と涼しく言っていましたが、皆様の周りの方はどうでしょうか?一度話してみれば、私の様に驚く人もいるはずです。

【市バス車両について】
■神戸市交通局市バス車両課
078-992-3333

【神戸市交通局 ホームページ】
■住 所:神戸市中央区加納町6-5-1 神戸市役所3号館4階
■U R L :http://www.city.kobe.lg.jp/information/about/construction/s1/017.html



Posted by KOCO2010 at 14:47Comments(0)優先座席発祥物語
こんにちは、甲南大学の樋口です。今回は、生活協同組合コープこうべさんの記事を書かせて頂きます。

コープこうべのシンボルの1つ食品工場

コープこうべの「六甲アイランド食品工場」
六甲アイランド食品工場
コープこうべは、食品を販売するだけでなく、製造ラインももっているのです。この食品工場では、コープこうべのオリジナルブランド「コープス」を作っています。「コープス」は、おいしさだけでなく健康や環境にも配慮して作られています。
この1つの食品工場で、とうふ、こんにゃく、パン、餅、麺類など約500品目の食品がつくられ、24時間稼働しています。これがコープこうべの大きな柱です。


1日1万個のヒット商品!!

そんなコープこうべで有名なのがこの商品です。
これはなんでしょうか?
メロンパンの型
メロンパンの型です。

神戸ハイカラメロンパン(左)、サンライズ(右)です。神戸の人の多くは、このラグビーボールの型をメロンパンと言います。
私は市外の人間なので、サンライズの方がメロンパンという認識だったので、びっくりしました。このラグビーボール型に、白餡とマーガリンが入っているメロンパンは50年ほど前に、コープこうべで開発されたものなのです。


実は、菓子パンの職人さんが、神戸の金物屋さんを訪れているときに、オムライスを作る型と栗まんじゅうをヒントに作り出したものなのです。
昔は、まくわ瓜のことをメロンと呼んでいたので、まくわ瓜を真似たこのようなラグビーボールの型をメロンパンと呼び一方、他の地域で一般的に言われている、丸い形をしたいわゆるメロンパンを、太陽の形に似ていることから、サンライズとよんでいました。なんで今でも神戸の人の多くは、ラグビーボールの型をメロンパンというそうです。
今では、コープこうべの菓子パン部門での売上1位のトップ商品です。


美味しいミニメロンパンが出来上がるまで


今回、菓子パン部門の吉本さん(左)と商品開発の磯さん(右)に案内して頂きました。
早朝から、作られているミニメロンパンの取材をさせて頂きました。
ミニメロンパンは、メロンパンをそのまま小さくしたものなので工程は同じです。

まず、中種仕込みをして、発酵をさせます。
小麦粉・塩・イーストなど材料をミキサーに入れ、生地をこねます
そして、2時間ほどねかせます。
部屋の中は、あたたかく湿度は70度もあります。発酵しているのでアルコールのにおいがします。
ここで難しいのは季節によって湿度など調整する管理です。夏場は湿度が高く、冬は乾燥しているので、水を多めにして湿度をあげるそうです。

職人さんは中種の発酵する前、発酵途中、発酵が完成している段階をみるだけでわかるそうです。
他にも見分け方としては、生地が伸びるか伸びないかなど、発酵する前とした後にこんなに違うんです。

そのあと、この機械で本ごねします。
砂糖・塩・油などをいれて、こねて、さらに30分寝かせます。

捏ね終わったらこんなに伸びるんですね。



昔は、「分割する」「丸める」「のばす」等の工程を別々の機械で行っていましたが、この一貫生産ラインを導入したことで機械による生地のいたみが少なくなり、効率よく生産することが可能になりました。
これにより、ふんわりした食感を生むようになったそうですが、ラインを入れ替えた当時は「長年のお客様から味が変わりましたね」と言うお声をもらったそうです。
よりおいしいパンをご提供したいという思いと、組合員が食べ慣れているパンの食感とずれてしまったり、パン作りの難しさを実感しているそうです。
お話をお伺いして、そのパンの生地の違いがわかるほど、お客様にご愛用されいるメロンパンだと、私は感じました。

次にこの機械で白餡を練りこんでいきます。

生地を一つずつの大きさに分け
できあがった生地に型をかぶせていきます。





型の大きさにふくらむまで醗酵させます。

オーブンで焼き上げます。

焼きあがりました。

型を手作業ではずしていきます。

メロンパンは4階から約40分間レーンに乗りながら
荒熱をとって、流れてきます。



タワーから出てきたメロンパンを機械で包装します。

ミニメロンパンが出てきました。工場内では、マーガリンのにおいが立ち込めています。
とても美味しそうです。


美味しいメロンパンをつくる手間暇

例えば、メロンパンの型。これは、新しく使用されるまでに半年間カラ焼するそうです。
メロンパンの型
型を焦がしていないと熱が反射して、メロンパンに焼き色が入らないとのこと。型が黄金色になるとようやく焼き色が安定するそうです。
また、型をかぶせて焼くので、蒸し焼きのような状態になるそうです。なのでふんわりした食感が実現できるそうです。


自分たちの食べるものを自分たちの手で

先ほどご紹介したこのミニメロンパン。これはコープの宅配専用の商品で、神戸ハイカラメロンパンをちょうど半分にした大きさです。
この宅配事業、コープの売上の3割だそうです。

実はコープのもう一つの特徴は、組合員のみなさまの声を商品開発に生かしているという点です。
商品開発の磯さんに教えていただきました。
コープでは商品開発をする際、コープ商品協議会といって、組合員に、実際に試作品を食べて頂いて生の声を反映させるなどしています。
他にも、おいし差キャンペーンなども実施しています。おいし差技票キャンペーンとは開発、改善予定の「コープス」商品の試作品【A】と【B】を食べ比べ、「おいしい!」と思ったほうを組合員にご投票いただき、その声を反映させて作る、組合員参加型の商品づくりキャンペーンです。
また、工場内では、職人による自由な発想の「商品開発コンテスト」を実施しています。2007年には、そこで提案された抹茶メロンパンが実際に販売されました。
「よりいいものをより安く」そんな思いで、消費者の声を、消費者のために日々さまざまな努力がされているのです


商品の作り手としての思い。

菓子パン部門の吉本さんと商品開発の磯さんに、商品作りのなかで一番好きなことをお伺いしました。
菓子パン部門の吉本さんが一番楽しいと感じることは菓子パンを作る過程の中ではオーブンだそうです。確かにパンで一番大事な部分は生地を仕込む、中種や、発酵の部分ですが、それがきちんと上手くいっているかがわかるのはオーブンで焼きあがるときです。また、組合員の口にはいるのと同じものをえれるという部分で、一番やりがいを感じるそうです。
また、商品開発の磯さんは、「組合員のみなさんにおいしいと思っていただきそして、自分の関わった商品がヒット商品になり、組合員さんに支持いただけるものになることがうれしい」とおっしゃいます。
コープでは、菓子パン部門で古くから「レーズンジャンボ」という商品があります。かつてはとても人気でしたが年々人気が落ちてきていました。
「レーズンジャンボ」は、もともと1970年代にジャンボジェット機が導入された時期に生み出され、形がとても大きく、他社にはない商品でした。
製品ロットに達しないと、販売が中止になります。すると、売れ行きが下がった理由を考えた磯さん。最初は、昔より家庭の人数減ったのでこんなに大きなパンは売れないのではないのか、もっと大きさを小さくしてみてはどうかと考えたそうです。
そこで、組合員さんたちに意見を伺ったそうです。そこで意外な答えが返ってきました。「大きさが中途半端だ。1人で食べるには大きいし、2人で食べるには中途半端」かつて、小麦が値上がりした時期に販売価格を維持するために、大きさを一回り小さくした事がご支持をいただけていない要因であることが分りました。
そして、この他にもたくさんの組合員さんのご意見を伺いました。
磯さんは思いました「レーズンジャンボは大きい方がいいんだ」と。
そこで、今までより、大きくして生地もやわらくしてみました。現在、売り上げは上がっているそうです。
組合員さんの意見はとても大きいという磯さん。それがコープの商品開発の強みだとお伺いして感じました。


消費者の要望と社会のニーズのご提供

コープこうべオリジナルブランド、「コープス」。「コープス」は安全安心で健康や環境にも配慮した商品をご提供しています。コープこうべは、どこよりも早く、安全性に疑いのあった食品添加物の使用をやめた組織です。
常に、組合員さんのことを一番に考え、組合員さんのために努力を惜しみません。
「コープス」の一番の特徴の1つは、健康志向。おいしさを追求すれば、たしかに塩分を多めにしたり、油分を多くすれば、味が濃くなったりするでしょうが、おいしさを損なわない範囲の中で、できるだけ低減するようにしています。また品質、味、価格にもこだわっています。
「コープだから安心」といわれることがとてもうれしいといいます。
そのためにも、こうした努力をしながら様々な商品を生み出してきています。


取材手記

私は、コープ独自で工場を持ちオリジナルブランドを作っているのは知りませんでした。工場でも、1つの工場で、とうふ、こんにゃく、パンなど、様々なものが作られているのは非常に珍しいとのことでした。今回、メロンパンの取材でしたが、メロンパンというイメージが神戸ではラグビーボールというのをお伺いして改めてびっくりしました。
コープこうべのお母様方への影響力はすごいなと思った反面、組合員第一の視点がその影響力につながっているのだと実感しました。



Posted by KOCO2010 at 14:24Comments(1)
歴史ある有馬温泉の老舗・御所坊に訪問取材

有馬温泉 有馬温泉は全国的に見ても歴史は古く第34 代舒明天皇(593〜641 年)、第36 代孝徳天皇(596〜654 年)の頃からで両天皇の行幸がきっかけとなり有馬の名は一躍有名になりました。また、かの豊臣秀吉が天正11(1583)年に有馬を訪れ、その後再三訪れたことで有名です。なお、幕府の直轄領でもあり今日まで至っています。
 1191 年に有馬温泉で創業した旅館で、現在、個性のある店舗等を展開している御所坊グループのルーツである「陶泉 御所坊」さんにお伺いしました。御所坊は小説家である谷崎潤一郎や詩人である与謝野晶子や作家の吉川英治など歴史的な芸術家や文化人に愛され、作品に出てきたり歌に詠われたりしています。


取材前に有馬の朝市に少し寄り道

朝市朝市

 有馬温泉は今や名物となっている朝市が開催されています。今回取材させていただいたのは1年のうち限定で開催されている門前市(2010 年は10月24 日~11月14 日の日曜日でした)。これは昔、明石など海沿いの街の商人が有馬に行商に来ていた頃をモチーフにして開催されています。

 実際に私たちが訪れた時も明石の海の幸を使った佃煮などが販売され、また骨董品なども販売され海外の方も交えて非常に盛り上がっていました。
さて、左の写真は金泉焼と言う有馬名物の御餅のようなお饅頭です。小麦と大豆と山芋を原料とした山岳の街有馬らしいお菓子です。実は試食させて頂きました。昔懐かしい味で幾つでも食べられるぐらいの美味しさで日本茶が欲しくなってしまいました(笑)。


知らないと損します。有馬の新名所
有馬玩具博物館


 今回、御所坊は金井庸泰さんに御案内して頂きました。金井さんは御所坊だけでなく、有馬全体をさらに活性化させようと様々な取り組みをされています。御所坊さんにお伺いする前に有馬玩具博物館も御案内して頂きました。




 有馬玩具博物館は1950 年代後半にドイツで始まった「子どもの遊び」や「子どものためのおもちゃ」の重要性を説く運動に共感して設立された施設です。子どもが育っていく過程の中で、どれほど遊びが重要な要因を占めるかを改めて認識できます。子どもにとっての「遊び」は「学び」と同じと言う意味ですね。実際におもちゃは「遊んでなんぼ」と言うことで、見るだけでなく、実際に触って遊ぶこともできます。



 当然子供だけでなく、大人も楽しめます。写真のジオラマはすべて手作業で作られたドイツの街をイメージしています。木1 本から建物までまるで本物のようで見ているだけでワクワクします。1 日に3 回鉄道が運転され部屋の照明が消えて、模型の建物に灯が灯り、電車が街中を走る様子はとても幻想的です。


モダンな雰囲気漂う御所坊

 御所坊はお客様に温泉街外周をまわって車をとめて頂くことで、狭い町中を歩行者の方が安心して歩ける町作りを目指しています。駐車場からは写真のロンドンTAXIで送迎してもらえます。取材の時も送迎して頂きました。レトロな雰囲気でロンドンTAXIから見る有馬の景色は何とも言えない大正時代を彷彿してしまう雰囲気は格別ですね。


 旅館に入ると木造特有の懐かしい良い香りがします。写真は御所坊入口ロビーにあるコタツと何と火鉢です。
案内していただく準備待ちの間ロビーの風景にうっとり。レトロな雰囲気に浸っていると自分が文化人になったような錯覚を起こしてしまいます(笑)。




最初に別館のお部屋を見せて頂きました。モダン・レトロと言う言葉がぴったりな佇まいです。こんな大人の旅行したいですね(笑)。長い歴史のある旅館特有の魅力がたっぷり詰まっています。



こちらは本館のお部屋になります。パッと見通常の純和風のお部屋に見えますが、よく見るとお部屋の梁など少し違う・・・。昔からある建物なので建て方が今日の建築技術と異なっています。お部屋の随所に歴史や時代を感じることができ、空想を駆り立ててくれます。こちらのお部屋の玄関には谷崎潤一郎に関連するものが展示してあり、見ることができます。かの小説家谷崎潤一郎は小説「猫と庄造と二人のをんな」の中に実名で御所坊を描いています。御所坊に宿泊しペンを進めていたと思うとたまりませんね。


凛とした佇まいの中庭を案内していただきました。中庭を抜けると檜の湯船が・・・。こちらは特別に作られた場所です。湯船に浸かりながらお酒をのみ、四季によって代わる日本庭園を眺める。そんな風流な楽しみ方をするために造られた空間で、水琴窟も近くに設置され、心地よい音色を聴くことができます。
歴史ある温泉地有馬温泉。その中でも最も古い歴史を持つ旅館の1 つ御所坊。神戸の山々は四季折々のカラーで訪れる人々を魅了してくれます。その山の持つ自然の魅力を演出してくれる旅館と言えます。その魅力は歴史的な著名人を魅了し続け今日も旅館を訪れる人々を魅了しています。神戸にお住まいの方は近い場所に凄く歴史的であり魅力的な場所が有馬です。ブログをご覧になった方は、百聞は一見にしかず是非一度訪れて肌で感じて頂きたいです。


編集後記

 今回取材させていただいた時期は丁度紅葉のピークの時期で山々は色づきとても綺麗でした。ちょうどこの原稿をお読みいただいている時期は冬だと思います。神戸は海と山が近い街です。
 冬は凛とした雰囲気の山を楽しむことができ、春になると山々は青く新しい息吹を感じることができます。1191 年に有馬温泉で創業してから途切れることなく今日まで至っているのは、長い時間を積み重ねてきた歴史ある旅館御所坊が有馬の魅力を存分に伝える旅館だからでしょう。
【追記】
有馬の朝市は年4 回ほど期間を設け、その中の日曜日に開催されています。開催期間につ
いては有馬の観光案内所に御確認よろしくお願い致します。

【有馬観光協会】
http://www.arima-onsen.com/

【陶泉 御所坊】
■住所 〒651-1401 神戸市北区有馬町858
■TEL 078-904-0551
■URL http://www.goshobo.co.jp/goshobo/

【有馬玩具博物館】
■住所 〒651-1401 兵庫県神戸市北区有馬町797 番地
■TEL 078-903-6971
■URL http://www.arima-toys.jp/about.html

【金井さんプロデュース有馬情報サイト有馬里】
■URL http://alimali.jp/docs/


Posted by KOCO2010 at 10:22Comments(3)有馬温泉物語

今回はチーズにまつわる神戸発祥の企業様を、甲南大学の樋口さんにレポートして頂きました。それでは早速樋口さんに御紹介していただきましょう。

こんにちは。甲南大学の樋口です。
今回は神戸ことはじまりで、神戸発祥のものを開発した企業様への訪問取材をさせて頂いています。今回個包装のスライスチーズを日本で初めて開発したQBBブランドで知られる六甲バター株式会社さんにお伺いしました。

六甲バター株式会社

竹中様 今ではスーパーに行けば一般的な乳製品として様々な種類が並ぶ"チーズ"。
実は、"スティックチーズ"を世界で初めて発売し、"個包装のスライスチーズ"を日本で初めて発売し、今尚業界をリードする新商品を開発し続け、業界大手のシェアを誇る企業が神戸にあります。 
それが六甲山麓に本社を構える"QBBブランド"で有名な『六甲バター株式会社』です。
 終戦直後の何も無い神戸で誕生し、プロセスチーズを日本の食生活の中で身近なものにし、企業の歴史がプロセスチーズの歴史そのものと言っても過言ではない、六甲バター株式会社をご紹介させて頂きます。今回は六甲バター株式会社の広報御担当をされておられます竹中様にお話をお伺いいたしました。



六甲バター株式会社。
しかし、バターをつくったことがない!?


Q・B・B 六甲バターは昭和23年、創業者で塚本信男前社長が三度の戦場への出征で凄惨な現場を経験したことから平和への重みを感じ、前身である"平和油脂工業株式会社"を神戸市に設立しました。

 戦時中、「戦争と平和」の対比は「大砲とバター」と表現されていました。この意味は、「大砲」=「軍事用品」、「バター」=「生活必需品」として、軍備を中心とするか、民衆の生活を中心とするかという議論が行われる際に使用された言葉で、海外では今でも使われている言葉です。

この様な平和への願いを込めて設立された六甲バターが最初に手がけた商品が、当時「人造バター」と呼ばれていた「マーガリン」です。商品名は『六甲バター マーガリン』。そして、六甲バターはマーガリンを学校給食に提供をするなどして着実に成功を収めて行きます。私も小学校の給食にQBBのマーガリンが出てきたのを覚えています。

マーガリンでの成功の勢いの中、次に社内に挙がった意見が「人造バターの次は、本物のチーズに代わる人造チーズをつくること」。しかし、現実は甘くありません。開発者がいくら努力しても満足できる人造チーズは完成しません。果敢に挑戦し続けるが市販に至らず、悶々した日々に頓挫した時、ある商談がタイミング良く舞い込みます。

それが、六甲バターが急成長を遂げる大きなきっかけとなった「オーストラリアの原料ナチュラルチーズの取引」です。この機会を逃さず、マーガリンからチーズの製造へ大きく舵を切った決断が、その後、人々の食生活を変える程の商品を生み出します。
この時代の変遷の中、人造バターであるマーガリンの製造以降、六甲バターの社名にちなんだ「バター」の製造が行われないまま企業は前進し続け、今では売上高の約95%をチーズ製品が占めています。


「進取の精神」が生み出した、世界初の商品。

 六甲バターがQBBブランドとして生み出した商品は数え切れないほど多く、開発主導型のメーカーとして、神戸の地で果敢に新商品の開発を続けてきました。勝負するのは大手乳業企業です。竹中さんは
「私たちはチーズしかない。チーズを作り続ける。体力勝負では勝てないからこそ私たちには"進取の精神"が必要なのです。」
とお話しされました。
 1960年、その"進取の精神"が世の中に画期的な商品を送り出します。世界初『スティックチーズ』の発売です。
「もっと多くの人にチーズを提供できないか。」
と疑問を抱えていた開発者たちが魚肉ソーセージの手軽さヒントに閃いたこの商品は、瞬く間に世の中を席巻します。
従来の箱型のチーズをナイフで切って食べるスタイルは想像するだけで手間がかかります。この、カットテープを引っ張ってフィルムを剥がすだけの超手軽なこのスティックチーズは爆発的な勢いで日本に広まり、大人気商品としての地位を獲得しました。それを裏付ける事実として、工場を稼動し続けても供給が追いつかず、残業が続く当時の新入社員の給料がそのお父さんの給料を超えてしまったと伝わっています(驚)。
 この様にして、一家に箱型が一つと言われた家庭でのチーズの存在は、一人一個のチーズに変わって行きました。


業界をリードする日本初の商品

 ロングセラー商品として現在も日本全国の子供から大人まで幅広い消費者から支持されるスティックチーズの誕生から11年後の冬、人々のチーズへの意識を再び変える新商品が誕生します。それが日本初の『個包装のスライスチーズ』の発売です。
開発者たちが、アメリカで生産されていたスライスチーズの工場を視察に訪れた時、その"製造工程"に驚きます。"棒状のスティックチーズを板状に広げカットして作る"の製造工程を見た開発者たちは日本に戻ると、日本の気候に合う機械を独自に開発しフィルム・大きさ・分厚さなどを自社で一から試行錯誤し研究し、日本初の個包装スライスチーズを家庭の食卓に届けました。
こうして誕生した日本初の個包装のスライスチーズは人々の食文化に影響を及ぼしました。


六甲バターの「神戸」へのこだわり。

 創業60年以上に及ぶ歴史の中で、六甲バター株式会社は昨年度に最高利益を打ち出しました。その社名に含まれる「六甲」のキーワードは同時に「神戸」を示します。神戸は創業者・塚本信男氏が平和への強いこだわりを感じて設立した土地である事、港街神戸として日本を代表する"ナチュラルチーズが陸揚げされる場所"であることが、地元への愛着を感じさせています。

 スティックチーズ、スライスチーズ、ベビーチーズ、キャンディーチーズ・・・六甲バターはこれだけのロングセラーのプロセスチーズ商品を生み出しました。その"進取の精神"が染み付いた企業の挑戦は次なる高みを目指しています。

世界一のプロセスチーズメーカーを目指して。

竹中さんは六甲バター株式会社の企業目標を
「世界一のプロセスチーズの技術を持つ会社を目指します。」
とお話しされました。
 近年では、社内の女性社員の方々が開発に大きく携わった6Pタイプの「チーズデザート」が、ブログやSNSで口コミブームを巻き起こすなど、今でも商品の一つ一つに独自の戦略を垣間見ることができます。HPではチーズコンテストや、ユーザー広場などを設け、私たち消費者がもっとチーズに親しみを持てるコンテンツ、もっとチーズを深く学び楽しめるためのコンテンツがあります。
食育にも力を入れ、2010年春には神戸市立六甲山牧場に「六甲山Q・B・Bチーズ館」をオープンさせ、子供連れのご家族から、若いカップルまでチーズを肌で体感する新しい観光施設をつくりました。
国内市場では人々のニーズに対応する斬新な商品開発に加え、健康食品としてのプロセスチーズの新たな可能性があります。グローバル化が進む海外市場では、既に事業を展開すると共に、成長国に"プロセスチーズメーカー"として独自の技術とノウハウが詰まった商品を持ち込むべく虎視眈々とその機会を狙っています。


編集後記

QBBとして知られる六甲バターの商品は私も含めて兵庫県内の方であればほぼ学校給食で口にしたことがあるはずです。私たちが当たり前に食べていたスティックチーズが世界初で、スライスチーズが日本初と知って非常に驚きました。そしてそれら商品の開発背景には創業当初の精神と開発者の血と汗の結晶だと改めて認識できました。神戸発の企業でも本社を東京などに移転する企業が多い中、発祥の地神戸を大事する六甲バターさんをさらに身近に感じることができました。今回は甲南大学の樋口尚子さんのレポートで御報告させていただきました。樋口さん取材お疲れ様です。
そして何よりも御多忙なところ長時間にわたりお話ししていただきました六甲バター株式会社の広報御担当の竹中様ありがとうございました。
このブログ原稿を読んでいただいて改めてQBBチーズを食べて頂きたいと思います。

【六甲バター株式会社概要】
■社  名:六甲バター株式会社
■設  立:昭和23年12月13日
■住  所:〒651-0062 神戸市中央区坂口通一丁目3番13号
■電  話:078-231-4681(代表)
■F A X:078-231-4678
■U R L:http://www.qbb.co.jp/index.html
■代表取締役:塚本哲夫



六甲株式会社のホームページにはさらに詳細な面白いコンテンツが掲載されております。是非チェックしてみて下さい。


Posted by KOCO2010 at 11:36Comments(1)プロセスチーズ発祥物語
こんにちわ!甲南大学の山本純之です。今回は日本で初めて本格的なフランスパンを製造・販売したパンの専門店株式会社ドンクさんについて記事を書かせていただきます!

神戸の老舗のパン屋さんドンクに行ってきました

外観写真ドンクは神戸市内にいくつもの店舗を抱え、また全国展開もしていることで有名な神戸から生まれたパンの専門店として神戸っ子御用達のお店です。
今回はドンクの店舗・商品をこよなく愛し、永きに渡りドンクを支えていらっしゃる社員さんからドンクでの仕事に対する熱い想いを取材させて頂きました。
今回の取材場所は神戸っ子なら御存知ドンク三宮本店。とってもおしゃれな店構え。しかし、パン屋さんの本領は外見でなく中身。さっそく店内へ・・・。

「ふわっ~」といい香りが漂ってきます。さすがパン屋さん。ついさっき昼食をしたばかりなのにもうお腹が減ってきました・・・(笑)。


ドンクが愛され続ける理由

 今年で創業105周年を向かえた「ドンク」。1世紀以上に及ぶ長い歴史を築けるほどお客様の支持を得るのには理由があるのでしょうか?詳しく伺いました。今回僕達の取材に応じて頂いたのはドンクの神戸エリアを管理されていらっしゃいますエリアマネージャーの伊藤様(写真左)です。また営業中店舗に快く迎えていただいたのは三宮本店の北風店長(写真右)です。
 「手作りにこだわっている」
。伊藤さんから一番最初に出てきた言葉でした。やはり一流のパン職人が作るパンというのは機械では真似ができない味とのことです。確かに「ドンク」には西川正見さんという「パン職人のワールドカップで世界3位」の実力を持つ方がいらっしゃいます。また他の店舗の職人さんも一流の方たちばかりです。手作りでしかできない繊細な味こそがドンクのパンのおいしさです。

もうひとつのこだわりは「品質を安定させる」とのことです。このこだわりを達成するためにドンクはかなりの努力をしているのだとか。神戸地区のドンクでは定期的に世界3位の西川さん自らがかなり厳しいチェックをしており、また、その品質チェックの厳しさは店に出すのには十分なレベルだとしても合格しないこともあるらしい。「どうしてそこまでする必要があるのですか?」と尋ねると、伊藤さんこう答えられました。

「常にお客様に出せるレベルよりも高い水準のパンを作ることで「やっぱりドンクのパンはおいしいよね」と品質の安定感を出していきたい」

とのこと。こうした見えない努力によってドンクのパンは作られています。しかし、ただ単に商品の厳しいチェックをするだけでは職人たちにとってはストレスになってしまいます。そこで伊藤さんはある工夫をされていました。それは定期的に職人同士を競わせることです。

 「神戸地区のドンクでは、定期的にクロワッサン・食パンなど毎回テーマを決めて各店から商品を持ち寄るんです。そしてただ単に品質をチェックするだけではなく、点数をつけて順位付けし、優勝店舗には賞状とトロフィーを贈っています。賞金は出ないのですが、職人たちはプライドをかけて積極的にやる気を出してきます。」
なるほど!確かにこれは面白い!職人たちのやる気を促進し、作る楽しみも増え、腕前の向上にもつながります。そしてそれがパンの味の向上につながり、ドンクのブランド力も上がっていきます。その結果、お客様によりおいしいパンを届けることができるようになる。そしてお客様の喜びは、職人たちにとってのやる気になる。とても素晴らしいサイクルだと思いました。

 ちなみに、ドンクの三宮本店ではクロワッサン部門で他の店舗を抑えて第一位となりました。店内の目立たない場所にこっそりと優勝カップと表彰状が飾られています(笑)。
 さらに驚きなのは毎回この優勝カップは優勝した店舗に移動するとのことです。次回はどの店舗が優勝するのか楽しみです。

 ドンクは店舗での接客にも気を掛けています。例えば、親子が買いに来られた時などはビニール袋で商品をお渡ししますが、スーツを着たビジネスマンが来られた時には、紙袋で商品をお渡しすることがあるとのこと。スーツにビニール袋は合わないという気遣いだそうです。また、普段の親子連れなどには紙袋は持ちづらいという点からビニール袋を使っています。これはお客様に気を掛けている一部の例であるが、接客の基本を伊藤さんは次のように仰っていました。


 「掛けるはあるべきだが、欠けるはあってはならない」


同じ「かける」でも意味はまったく違います。お客様には気を掛けるべきだが、お声掛けが欠ける、商品の欠陥や棚から商品が欠けることはあってはならないということだそうです。非常に分りやすい表現だと僕も思いました。


商品開発はどうしているのか?


ドンクのパンはかなりの頻度で新商品が出ています。やはり商品開発部みたいなものがあるのだろうか?と思って質問してみました。

「商品開発部はありません。商品開発はそれぞれの職人が行っています。また私自身もアイデアを出していきます」

とのことです。それぞれが開発したパンは東京にいるブランドマネージャーにGOサインをもらえれば晴れて棚に並ぶ。しかし、なかなか簡単には通るものではないとのことです。失敗作もたくさんあるらしいです。「ドンク」というブランドに合わないものなどは出さないらしいです。そして、流行は追わず、ブランドの品格維持にこだわっているとのことです。

またパン屋さんというのは横つながりも強いとのことです。伊藤さんも他店から製法を教えてもらったり、教えることもあり、友達から聞くこともあるのだとか。そしてパン屋さんというのは他店に勝手にパンを真似されたとしても、むしろ真似されることはそのパンを評価されているとプラスに考えており、大変喜ばしいことだと話してくれました。


ミニクロワッサン誕生秘話


 ドンクには数多くのパンがありますが、なかでも一大ブームになり話題になったのが御存知「ミニクロワッサン」。その誕生の経緯について話して頂きました。

「ミニクロワッサンの発祥地は札幌の店舗でした。実はこの商品はもったいない精神が生みだしたんです。パンを作っているとどうしても生地の切れ端が残ります。それを美味しく生まれ変わらせたのがミニクロワッサンです。大きさがバラバラなので量り売りにしました。人気商品となった今ではミニクロのために生地を仕込んでいます。」


なんとドンクの名物ミニクロワッサンは最初はリサイクル商品だったとのこと。また、パンの量り売りも当時はなかったので凄く好評になったのだとか。その後、全国的なブームとなり、そのブームが落ち着いた後もドンクは本家本元としてミニクロワッサンを出し続けており、しかも人気は今も健在であるということです。また現在は「ミニワン」としてミニクロワッサンを中心とした小型の商品のブランドを確立しています。


やっぱりおいしいよね♪普通に美味しいよね♪


取材もいよいよ終盤へ。

「ドンクはどのようなパン屋を目指していますか?」

「ドンクは何か特別な時に食べるパンではなく、日常的に食べるパンを目指しています」

とても印象に残った言葉でした。明日も明後日も食べたい。通学・通勤の帰り、買い物などのついでに寄って買ってほしい。そして普通に食べて、普通においしいパンでありたい。いつ食べても「やっぱりおいしいよね」と言われることがドンクのパンのキーワードでありたいと話して頂きました。だからこれからもそのようなことを考えてパンを作っていきたいとのことです。

今回の取材では、長年においても変わらないドンクのパンに対する思いをお話して頂きました。また品質の安定の面においては職人たちがパン作りをより楽しめるような工夫なども聞くことができました。これからもDONQは「やっぱりおいしいよね」をキーワードとして私たちにおいしいパンを届けてくれると思います。

伊藤さん本日はお忙しいところ、長時間にわたりお話し頂きまして、誠にありがとうございました。


編集後記


今回取材した三宮本店でしか売ってないパンを少しご紹介したいと思います。どれも人気ランキングの上位5位以内に入るパンです。
三宮本店でしか買えない限定パン
まずは「但馬牛のカレーパン」
実はこのカレーパン、一見揚げてあるように見えるが揚げてない。どうみても揚げてあるだろ!と突っ込みたくなるほど。実は揚げるのではなく焼いて作っているのだとか。ちなみに製法は非公開。そして食べてみた。

「サクッ」
本当にびっくりした食感であった。今まで食べたカレーパンとはサクサク度が全然違うではないか!まさに革命的な食感である。「サクサク」という食感をもっとも上手く表現しているカレーパンであろう。しかもあまり油っこくない。食べやすい。カレールーもいい感じのピリ辛さ。旨い。かなりのおすすめだ。

次は「淡路産たまねぎパン」
たまねぎパン・・・? 実は、僕はあまりたまねぎが好きではない。まったく想像できない。しかし、せっかく取材のお土産にもらったので食べてみることに。・・・旨いではないか!なぜこんなにおいしいのか。このパンはじっくり加熱することで甘みを引き出しているたまねぎが旨い。そして微妙な塩味もあり、淡白で新しい味である。パンの中にたまねぎを入れるとこんなにおいしいとは思わなかったので驚いた・・・!

最後は「手だきのクリームパン」
パンの定番であるクリームパン。見た目はもちろんおいしそうであるが、何か他のクリームパンとの違いはあるのか?食べてみた
「クリームが多い!!!」

中のクリームがとにかく多い。僕が今まで食べてきたクリームパンはなんだったのか・・・。テンションが上がる。写真にはないが中身の断面を見ると、クリームの多さがわかりやすい。クリームが多いとその分パン生地の比重が減る。そうすることでクリームの甘さをより楽しむことができるようになっています。とてもぜいたくなパンです。また、クリームも程よい甘さであり、やめられない味を出しています。


今回の記事で「DONQ」に興味を持たれた方、また「DONQ」をより知ることができた方是非「DONQ」のこだわりのパンを食べて欲しいです。




Posted by KOCO2010 at 15:30Comments(1)ミニクロ発祥物語
松阪牛・近江牛と並んで、「日本三大和牛」と言われる神戸牛

開国した頃の日本で、一番牛肉を消費していたのは神戸だったともいわれています。そんな神戸ビーフの地、神戸に牛肉専門店の発祥とも言われる老舗企業「大井肉店」があります。

廃藩置県によって兵庫県が誕生し、神戸外国人居留地が126区画に整備された明治4年。そんな騒然とした時代に、港街神戸で当然の様に誕生した牛肉の商売。

今も世界的なブランドとして知られる“神戸肉”の基礎を築いたとされる初代岸田伊之助氏が創業し、初代兵庫県知事の伊藤博文や福沢諭吉をはじめ、歴史上の著名な人物もその肉の素材に舌太鼓を打ちました。本日は、株式会社大井肉店の代表取締役社長でいらっしゃます、田伊司様にお話をお伺いしました。





明治4年創業以来、伝統と誇りを引き継ぐ4代目社長


身に纏われている岸田伊司社長の荘厳な雰囲気に社長室で緊張する取材スタッフに、そっと併設するレストランで自家焙煎された美味しい珈琲を差し出して下さる岸田社長。

4代目経営者として先祖代々続く伝統と誇りを引き継ぎ、人々に神戸肉の味を伝える使命を背負われた岸田伊司社長の口から訥々と語られる話に、心を惹かれました。

神戸牛に誰よりも深く関わり、誰よりも素材の味を知る岸田社長に神戸牛のことはじまりについて、詳しくお話を伺いました。
  

Kobe Beefのルーツは江戸時代!?


神戸肉は高級食材として知られ、各国にある三ツ星レストランのシェフが「Kobe Beef」を買い付ける程、世界的にも認められた究極の食材です。その神戸肉として知られているのが、実は但馬牛になります。昔から牛車として使われていた但馬牛ですが、江戸時代になって大阪・天王寺で開かれた牛市で、“藩の威厳を保つため”に毛並みが美しく、良く肥えた牛をつくる事がきっかけで、独自の飼育技術が発達しました。


口コミで全国を席巻する神戸肉


神戸肉は開港当時から、牛肉を食べていた外国人や船乗りに大きな人気を博していました。“すき焼き”などの牛肉文化が普及し始めた頃には、その人気は既に口コミで広まっていて、船乗りを引退した日本中のシェフたちを中心に神戸肉の買い付けが行われました。つまり、「神戸肉・Kobe Beef」は開港と共に全世界に広まっていた「日本ブランド」だったのです。

その世界的なブランド「Kobe Beef」の基礎を作り上げた人物の一人が、宇治川(現在の神戸駅と元町駅の中間)の山奥に広がる農地で牛を扱っていた、大井肉店の創業者である岸田伊之助氏だったのです。


宮内庁御用達にも選定された、大井肉店が守り続ける素材の味


明治時代から守り続けた最高級の肉の味は、先代から続く“自分が納得できる良い物をお客さんに出したい”と言うこだわりがあるからこそ実現しました。

昭和29年、大井肉店はその肉の味が認められ宮内庁御用達に選定されました。その当時は、一つの商品を仕入れる度に、全ての道具を新品にしていたと言います。

一つの歴史的事実として、明治時代から残っている牛肉店で、今も尚、肉の加工ではなく“素材”を提供し続けている店は他にありません。

「お客様に素材の味を認めてもらって、その素材の素晴らしさとこだわりに“共感”を持ってもらったからこそ、大井の肉は残り続けてきた。」岸田伊司社長はこう語ります。




「神戸市民に神戸肉を食べてもらいたい。」その想いを形にする大井肉店の取り組み。

明治時代から神戸の地で商売をして来た大井肉店では、神戸の人に神戸肉の味を知ってもらうために、4代目岸田伊司社長はお客様が気軽に利用する事ができる“イートインコーナー”を設置しました。

「自分たちが“目利き”したこだわったものをお客様に出して喜んでもらうためには、こうするしかなかった」当時の想いを岸田社長はこう言います。




神戸肉が食べれるとも歌わなかった隠れた商売。しかし、美味しいお肉が食べれるお店の噂は口コミで自然と人気が広まり、現在は大井肉店本店の上階や、神戸そごうの地下にあるレストランでその味を楽しむ事ができます。
 





また“裾物”と呼ばれるバラ肉等を安価で提供し、“1000円で買える美味しい神戸牛”を売り始めました。冷蔵庫も無い時代、昔は井戸に牛を吊っていたと言います。六甲山で氷をつくり、それを切り出し、アイスロードと呼ばれる道を通って、お店まで持ってきていました。

神戸の人は肉と言ったら真っ先に“牛肉”を思い浮かべる方が多いと思います。神戸の人は、肉まんと言えば多くの人が、中に“牛肉”が入っていると感じます。だから、わざわざ“豚まん”と呼び区別をする様になったと言われています。

そんな神戸で140年近く牛肉を売り、神戸肉の素材を守り続け、多くの人と苦労を乗り越えて来たからこそ、「神戸の人に神戸肉を食べてもらいたい。」と言う先代から続く想い入れは深く根付いています。

長い歴史の中で培った“目利き”で、お客様に最高の素材を提供し続ける


「『私はあそこでお肉を買っているんですよ。』と、お客様が人に伝える事、人に自慢できる様な店になりたい。」明治から平成を渡り歩く中で、大井肉店の在り方を岸田社長はこの様に話します。

家庭の料理で味が変わってしまう“素材”を扱う商売を行う中で、「大井肉店のお肉やったら、美味しいです。やわらかいです。旨いです。」と、ついついお客様が声を漏らしてしまう最高級の肉を支えるのは、歴史の中で出会った大井肉店専属の肥育農家や牧場と、熟練した目利きの技術を持った職人たちです。
  



明治4年創業の看板と、先代から続く牛肉への自信と誇りを背負い、「あそこで肉を買ったら間違いない!」この声と共に、大井肉店は神戸で唯一の開港から続く老舗企業として、次の時代に向かって歩み続けます。



【株式会社大井肉店概要】
■社 名  :株式会社大井肉店
■創 業  :明治4年(1873年)
■住 所  :兵庫県神戸市中央区元通7丁目2番5号
■電   話  :078-351-1011
■F  A  X  :078-351-5494
■U  R  L  :http://www.oi-nikuten.co.jp/index.html
■代表取締役社長:岸田 伊司
//img01.ko-co.jp/usr/kobehassyou/


          


Posted by KOCO2010 at 18:55Comments(0)牛肉発祥物語
元町商店街のアーケードを東に通り抜け、スクランブル交差点を真っ直ぐ渡り、そのまま旧居留地の一番北にある道を歩きます。個性的でお洒落ななお店が軒を連ねる道を少し進むと右手に赤い建物が見えます。その中を窓ガラス越しに覗けば、味わい深いアンティークなテーブル・椅子、そしてその横には「1872年創業 永田良介商店」と書かれた木版があります。こちらの、“永田良介商店”は、明治5年(1872年)に創業され、日本で最初に洋家具を作った洋家具店の一つと言われています。



現在では“神戸家具”とまで呼ばれる程、価値が高められた家具を138年間、神戸の地で作り続け、多くの家具職人を輩出し、今も尚、その家具作りにかける伝統と技術と意志を受け継ぐ“永田良介商店”の5代目社長でいらっしゃいます永田耕一様にお話を伺いました。


洋家具作りのきっかけは、旧居留地に住む外国人相手の便利屋だった!?


明治5年、英国商館で働いていた創業者の永田良介氏は西洋の文化が溢れる神戸で、旧居留地の外国人を相手に家具の修理や引き取りを行うなどの道具屋、つまり便利屋として商いを始めました。

当然の様に“畳に卓袱台”が中心だった日本の生活様式には無かった椅子やテーブルでしたが、日本の役所や会社を中心に、西洋家具の必要性は文明開化の勢いと共に日々高まっていました。

そして、神戸の港にいた船大工を中心に“見様見真似”で家具づくりの技術を習得した家具職人たちが洋家具商としての業務を確立させました。

永田良介商店では、神戸港に着く外国船の調度品の修理なども頼まれるようになり、洋家具のリフォームとリセールを扱う中で、日本で最初となる洋家具製作手法の技術を培って行きました。

この様に、神戸での洋家具のはじまりは、政府の洋風化政策などでは無く、港町であるからこそ生まれた実用的な需要から起ったとのことでした。


神戸独特の地域性の中で育った神戸家具職人が、全国
に洋家具の技術を広めた。


洋家具の需要が生まれ始めたのは、幕末の開港当時。箱館、神奈川、新潟、兵庫、長崎で洋家具の製造が開始されましたが、大都市に近い“神奈川”と“兵庫”で特に洋家具の産業が成立しました。神奈川は東京に向けて洋家具を販売するため、巨大工場を持つ企業が出現しましたが、神戸には一つ一つ手作りの家具を作る職人が集まっていました。

その理由を永田社長は次の様に話します。
「関西では『大阪は大阪や、京都は京都や、それで神戸は神戸や。』という地域で根を張る空気があったからじゃないですか。」

東京の様に大量消費に対応するための“大量生産”では、関西という地域独特のニーズに対応できないために、神戸では在庫を持たない職人が手作りで個別に生産しました。神戸で育った独自の技術は外国人の目にとまる程素晴らしく、ヨーロッパでも評価され、明治後期の2代目永田良介氏は神戸家具の源流とも言えるこの家具をイギリスへ“逆輸出”していました。

また、永田良介商店をはじめ、神戸で独自の技術を身につけた優秀な家具職人たちが日本各地に出向し、その洋家具の技術を全国に伝えたと言われます。特に京都長野では神戸の職人によって洋家具産業が興ったと言われています。


実はまだまだ歴史が浅い、日本
での洋家具文化は発展途上。


50歳前後の皆様、子供の頃のテレビドラマやCMの映像を思い返してみて下さい。20歳前後の若い方は、お父さんやお母さんに聞いてみて下さい。

「子供の頃、テレビに洋家具は映っていましたか?」

洋家具が日本で急に普及し始めたのは、昭和34年頃、東京オリンピックが開催された以降です。その頃のテレビ番組は決まって、茶の間に卓袱台。家に洋間がある家も10軒に1軒程では無かったでしょうか。テレビでは昭和45年頃になって、一家団欒のシーンの中に洋家具が流れるようになります。しかし、当時の洋家具は海外の図面で製造されている事が多く、日本人の身の丈に合わない高さの椅子やテーブルが目立ちます。昔の洋風のソファーや椅子に座れば、足が浮いてしまう経験をお持ちの方も多いかと思います。

「今でこそ、大きな洋家具企業が日本で販売をしていますが、日本人の体や価値観に合った家具文化は何ら成熟していないと言えます。」

永田社長は、先祖代々神戸の地で、家具を使う人の事を考えた家具を作り続けてきたからこそ、現在の洋家具文化についてこの様に話されます。


140年間培ってきた伝統と技術、現代のお客様のニーズを組み合わせ最高のオーダーメイド神戸家具を作る。



「昔は、使いやすさよりも“どれだけ部屋を洋風にできるか”を日本人は求めました。しかし、今は洋家具が普及して時間が経ったことによって家具の“使い易さ”を意識する方々が増えてきました。」
こう話す永田社長は、移り変わる時代の中で、その人に合う“パーソナライズされたオーダーメイド家具”の製造を本格的に開始しました。

その新しい試みの中で、5代目永田社長は先代から受け継いできた言葉を忘れません。
「自分たち職人にとってはたくさんある家具でも、お客さんにとってはたった一つの家具」

そして、永田社長は今の時代だからこそ感じることができる想いを加えます。
「家具は“家の道具”家具を使う人が、どれだけ気持ち良く使って、どれだけ気持ち良く生活してもらえるか。それに尽きる。」

使う人が、そのスペースを使ってどんな事をしたいのか、何を求めているのか。138年間、神戸の地で深く培われてきた知恵を生かし、お客様が“本当に理想としている生活のイメージ”を引き出し、そこから絵を描き図面を描き、各工程の職人の方々と共に、長く大切に使うことができる最高の家具を完成させます。特に最近注目をあつめているのが、パーソナルチェアーです。




たかが椅子、されど椅子。
しかし、こだわるからこそ生まれる完全オーダーメイドの究極の椅子



当初、定年退職された方に向けて考案された、このオーダーメイドの椅子ですが、最初の購入者は“30代の女性”でした。その女性は“女の人の体にぴったり合う椅子”が無かったために、永田良介商店の噂を聞きつけお店を訪れたそうです。

永田良介商店ではオーダーメイドの椅子を作る際に、こちらの計測用椅子で、きちんと体に合ったサイズを割り出します。背もたれの高さや、アームとアームの感覚。どれも、椅子を使う人が最も心地よさを感じる事ができるように調節されます。


こちらでつくられる椅子は、隅木や補助金具を使用しない木と木の強固な組み合わせでつくられています。家具づくりの中でも特に技術と勘を要する椅子も、熟達した職人によって、しっかりと命が吹き込まれます。



永田良介商店にある椅子に腰をかける際にまず驚くことが、座り心地の良さです。その秘密は、日本でも数少ないコイルスプリングが使用されているからです。


コイルスプリングを使用すると、丁度良い適度な硬さで、身体に優しい椅子ができます。この張り方は日本の家具屋でも知らない事が多く、家具の事を本当に理解する家具職人たちがいる永田良介商店だからこそ実現する座り心地が生まれます。


                                   ※クリックすると拡大します

そして、クラシックなものからモダンなものまで、自分の好みのデザインを選びます。店内にもイメージし易い様に味わい深いデザインの椅子があります。驚くべきことに、肘掛の丸みや背もたれの微妙な角度、細かな飾り付けや脚部の抜きまで、使用者のことを考えられて設計されているため、それぞれが全く別物です。

                                 ※クリックすると拡大します

また、永田良介商店では一つの家具を大切に長く使ってもらうために、家具のメンテナンスを行っています。この洋家具店で作られた“神戸家具”は丁寧にWAXで仕上げられており、木が呼吸しています。そのため、環境によって僅かな狂いが生じる場合があります。永田良介商店では家具の塗り替えや張替えなど購入後のメンテナンスを行っているため、100年以上、永田良介商店でつくられた洋家具を使っている方もいます。


 

神戸の地で、時間をかけて、お客様に必要とされる神戸家具を作り続ける。


永田良介商店は一つの家具の製造に平均して“1か月半程度”の時間をかけて家具を作ります。それ程じっくりと時間をかけて、その人のイメージに合い、一番気持ち良く使ってもらえる家具を作っています。機械で大量生産された家具では一人一人のお客様の体に合わした家具作りは不可能です。
今後、他の様々な商品と同様に、家具商店が更に選別される時代が来ると言われています。そんな現状の中で、永田社長はこう話します。

「僕はものをつくっている感覚は無いんです。お客様と協力して快適な生活をつくることを手伝っているんです。家具の知識をしっかり持って、家具の事を本当に理解している家具屋は必要とされます。」
永田社長がこう断言する背景には、138年の歴史を持ち、お客様との長い付き合いの中で、お客様の体や生活様式に合った神戸家具を作り続けてきた自信がある事は間違いありません。

神戸旧居留地にある永田良介商店を訪れれば、心を暖かくする手作りのお洒落な神戸家具と、日本の家具文化を誰よりも知る永田耕一社長と出会うことができます。




【永田良介商店概要】
■店 名:永田良介商店
■創 業:明治5年(1872年)
■住 所:神戸市中央区三宮町三丁目1番4号
■電  話 :TEL 078-391-3737 
■E – Mail :info@r-nagata.co.jp
■URL   :http://www.r-nagata.co.jp/




Posted by KOCO2010 at 10:13Comments(0)洋家具発祥物語
唐突ですが、日本の市町村で1世帯あたりの紅茶の消費量が最も多い街はどこかご存知ですか?

実は神戸が紅茶の1世帯あたりの消費量が多いのです。余談ですがケーキなどのスイーツの1世帯あたりの消費量が多いのも神戸なんですよね。ケーキと相性の良い紅茶。西洋文化がいち早く浸透した神戸らしい事実ですよね。今回は、その紅茶に関係する“神戸ことはじまり”をご紹介いたします。

みなさんは紅茶を飲むときティーバッグの紅茶を飲まれる事が多いかと思います。今回ご紹介させていただきます神戸紅茶株式会社は日本で初めて紅茶のティーバッグを作るのに“コンスタンタマシン”と呼ばれる専用の機械を導入した会社です。それまではティーバッグはなんと、1つ1つ人の手によってミシンで製造していました。


今回は日本の紅茶ティーバッグに多大な功績を残した企業。神戸紅茶株式会社さんをご紹介させていただきます。代表取締役でいらっしゃいます、下司善久様にお話をお伺いしました。




「リプトン紅茶」の日本国内初生産工場は神戸だった!?


1925年(大正14年)神戸紅茶株式会社の前身である、食品卸売業「須藤信治(のぶじ)商店」が創業され、三井物産株式会社から神戸地区の有力特約店に指定されました。
創業者の須藤信治氏が農学校出身で紅茶に興味をもっていたこと、西洋文化を積極的に取り入れていた神戸で商売を始めたことから、創業当初から紅茶に関する事業が行われていました。

昭和32年、英国の大手紅茶メーカー「リプトン」の日本で初めての国内生産の工場に指定され、神戸に本社を設置したリプトンジャパンと共に紅茶の生産が開始されました。

その後、東京にもリプトン関東工場が完成し、西日本は関西工場、東日本は関東工場として、日本を代表する大規模な紅茶生産工場として、関西工場の名前が広く知れ渡るようになりました。

大手紅茶メーカーのリプトンのティーバッグが日本で飲まれるようになったのは、神戸が発祥だったのですね。


日本で最初のティーバッグ自動
包装機「コンスタンタマシン」の導入!!


リプトン工場でのティーバッグの生産量が拡大するにつれ、これまでの人海戦術のミシンを使った手作業では日々増えるティーバッグの需要に間に合いません。

そして、より多くの紅茶を製造するために、昭和36年に日本で初となるティーバッグ自動包装機「コンスタンタマシン」をドイツから導入しました。

リプトン工場での生産実績が業界で広まるにつれ、リプトンだけでなく、日本全国のメーカーからOEMで紅茶製造の依頼が舞い込むようになりました。

コンスタンタマシンの導入こそが、日本国内の現在のティーバッグ市場に大きな革新を起こした事は間違いありません。



OEM生産からメーカーへの成長


 リプトンは生産拠点を日本国内から海外へと移しましたが、日東紅茶をはじめ数多くのメーカーの紅茶をOEM生産していました。日本初のコンスタンタマシンの導入以来、紅茶製造の確固たる地位を築いていました。

そして、平成5年に神戸紅茶株式会社から自社ブランド「神戸紅茶」を発売し、メーカーとしての挑戦がはじまりました。

紅茶のティーバッグ第一号が誕生した製造ラインから新たに神戸紅茶ブランドの製造が始まり、この時から国内の紅茶メーカーとして、日本人のライフスタイルや、食の多様性に合わせた紅茶の普及に強く携わって行きます。


“神戸紅茶ブランド”を支える、日本トップクラスの紅茶鑑定士


紅茶の世界では「紅茶鑑定士」と呼ばれる方々がいます。紅茶鑑定士は、世界中から送られるたくさんの茶葉のサンプルを1つ1つ確かめ、渋み・香り・コク味など味を構成する要素や、その強弱を正確にブレンドし、私たちの手元にいつもと変わらない美味しい紅茶を届けます。また、季節、日常の特定のシーンに合うような紅茶、ストレートティーやミルクティーに合う紅茶を作ります。

そのため、紅茶鑑定士は10年以上の修行を積みやっと一人前と呼ばれる様になるため、
日本では、名前が知られている紅茶鑑定士は数名しかいないと言われています。神戸紅茶株式会社では、その本物の紅茶鑑定士のうち2名の方々がご活躍されています。

神戸紅茶では鍛錬を積んだ、本物の紅茶鑑定士がプライドと意地を持ち“神戸紅茶”を作り続けています。


「ひときわ香り高い紅茶を、神戸から。」徹底的なこだわりから生まれる“神戸紅茶”


神戸紅茶では、紅茶を飲まれた方に「本物の紅茶を、より多くの人に楽しんでもらいたい」と言う想いから、高級な茶葉しか仕入れていません。茶葉生産地である茶園によっても地域や生産者によって味が違うために、実際に海外の産地を訪れ視察を行います。そして、紅茶鑑定士が味を確かめ「神戸紅茶」が生まれます。

更に、そのこだわって作られた神戸紅茶を、品質や味と合致する適正な価格で販売しています。ただ単に紅茶を販売するのではなく、随所にこだわって紅茶を販売する理由には、先に言いました「本物の紅茶を、より多くの人に楽しんでもらいたい」という想い入れがあるからです。


神戸だからこそ生み出せる神戸紅茶の味。



「昔から紅茶が多くの人に飲まれている神戸で、紅茶をつくることは本当に幸せなことです。」
神戸での紅茶生産について、下司社長はこう話されました。

古くから紅茶が自然と人々の生活に浸透する様になった神戸は、紅茶の消費量は常に全国トップクラスです。その神戸で日本でいち早くコンスタンタマシンを導入し、実績と技術を積み重ねて来た“神戸紅茶”は、紅茶の良し悪しを理解される方が多い神戸で、原料茶から包装資材に至るまで、妥協無く徹底したこだわりを持って、おいしい紅茶を提供し続けます。
ストレートで香り高く、ミルクティーでコクが深く、厳選茶葉の特徴を充分に活かし紅茶鑑定士が日本の水に合わせてブレンドした“神戸紅茶”は、自信を持って“神戸ブランド”と言うことができる本物の味です。



【神戸紅茶株式会社会社概要】
■社 名:神戸紅茶株式会社
■創 業:大正14年11月(1925年11月)
■設 立:昭和30年10月27日(1955年10月27日)
■住 所:神戸市東灘区住吉浜町16番地2
■電  話 :TEL 078-851-7281 
■E – Mail :info@kobetea.co.jp
■URL   :http://www.kobetea.co.jp/
■代表取締役:下司 善久


編集後記



取材の間に下司社長から頂いた“アイスティー”を口に入れた瞬間、その口当たりとまろやかな紅茶の味に思わず「おいしぃ。」とつぶやいてしまいました。

喫茶店でコーヒーを頼んで一服する私は、紅茶の味というものをあまり理解しておりませんでしたが、コーヒーとはまったく別の紅茶の美味しさに出会いました。

また下司社長から紅茶通の方の“紅茶の味わい方”についてご説明頂きました。皆様にご紹介させて頂くと、紅茶通の方は“渋み”を重視して飲まれることが多く、最初は慣れない渋みでも、それが紅茶の“旨み”や“コク”に変わって行くそうです。

ちなみに、11月1日は「紅茶の日」ですので、紅茶の歴史を感じながらゆっくりと、普段より少し華やかな時間を、こだわりがたくさんつまった地元の「神戸紅茶」を飲みながら、ご家族・ご友人と過ごしてみてはいかがですか?

「紅茶の日」の歴史が詳しく紹介されているサイトへはコチラからどうぞ。



 


Posted by KOCO2010 at 13:30Comments(1)紅茶ティーバッグ発祥物語
~The history of sauce from KOBE~


日本最初の港町として知られる神戸!
西洋文化の浸透も非常に早い街で、食文化も洋食などがいち早く浸透してきました。洋食と言えば料理の味を引き立てる様々な調味料があります。時の流れと共に、調味料は輸入から国内生産も始まりました。

実は今では誰でも知っていて、各家庭に必ずある調味料の“ソース”を日本国内で初めてって生産された企業様も実は神戸発祥なんです。

その企業様が一世紀以上ソースを作り続けて根強いファンを獲得している「阪神ソース株式会社」です。今回、代表取締役でいらっしゃいます安井洋一様と開発室で日々ソース開発に心血を注いでおられます安井元彦様にお話を伺いました。


25年前、明治維新・文明開化の時代
港町神戸で日本最初のソース誕生にまつわるドラマがあった!



日本で最初にソースを作った方が、現在の阪神ソース株式会社の創業者である安井敬七郎氏です。
江戸時代末期に仙台藩の医師であり、仙台藩が設立した医学を中心にあらゆる学問を学ぶことができる『養賢堂(現在で言う大学)』で学びました。

やがて日本は明治維新を迎え敬七郎氏は東京で医学だけでなく、ドイツの工学博士ワークネル教授より工業化学を学びました。

とある日、敬七郎氏は教授と神戸で食事をしました。
その時につぶやいた教授からの何気ない一言が敬七郎氏をソース作りへと駆り立てたのです。

この時教授がつぶやいたのは、
「神戸には美味しい肉があるのに、どうして日本には美味しいソースが無いのでしょう?」
とつぶやきたのです。この一言が無ければ日本でソースの生産は始まっていなかったかもしれませんね。


新しい物好き!
ベンチャー精神、パイオニア精神が日本のソースを生み出した!!



敬七郎氏はソース作りに取り掛かると、ソースの本場であるイギリスへソース工場の見学に出向いています。

想像してみてください。時は文明開化の時代です。
国内の移動も鉄道もままならない状態の時代で遠く離れた異国であるイギリスへ向かうと言うことがどれだけ大変なんでしょうか?
飛行機も当然ないので、長い月日をかけて船でイギリスに向かうのです。

敬七郎氏の根性や精神が感じられます。

ここに古い写真があります。
写真の右端下の洋服に身を包んだ人物が敬七郎氏です。日本ではカッポウ着やおかっぱ頭が当たり前の時代である明治に、タートルシャツにジャケットを着こなしています。かなりお洒落な方だったようです。

当時の先進国であるイギリスの空気に触れて、当時の日本人には真似できない考え方や発想があったのかもしれません。




現在、家庭の冷蔵庫や食卓にはたくさんの調味料が並びますが、当時の日本に存在した調味料は少なかったと考えられます。

敬七郎氏はそのまま西洋のレシピをコピーするのではなく、日本人の口に合うように日々研究を重ね明治18年(1855年)に国産第一号のソースを完成させました。


神戸の大空襲、阪神大震災
地元神戸での支え合いの中で地元に愛される企業へ



阪神ソースの歴史は決して楽なものではありませんでした。
創業者である敬七郎氏から代替わりし、時代は20世紀へ。
20世紀には世界中を巻き込んだ第2次世界大戦太平洋戦争が勃発し、日本も悲惨な戦争へ突き進んでしまいます。

神戸も映画「蛍の墓」でもご存知の通り大空襲の被害があり、街中破壊され数多くの方々が死傷してしまいました。
神戸の海沿いにあった阪神ソースの工場も全て空襲でやけてしまい、戦後は焼け野原から地元の人々や地元企業の協力のもとゼロ・ベースで再度スタートしました。

平和な時代を迎えましたが、神戸は今までに経験した事の無い大きな地震に襲われます。

そう、阪神大震災です。

神戸市内全域のライフラインが失われ、阪神ソースも操業ができなくなりました。阪神ソースの地元密着の強みはこの天変地異の大災害も乗り越えます。ソースで使う水を地元の方々に提供。地元の協力を得て震災後も迅速にソース作りを開始し、お客様にソースを提供することに成功しました。


「価値ある良い商品を世の中に出したい。」


創業者・敬七郎氏の曾々孫にある開発室・安井元彦様は創業時から続く思想を受け継いだソースの開発をされています。

「一度食べたら止められない、価値のあるソースを作って行きたいです。」

大量生産販売体制が主流の今日、価格を抑えるため甘味料や防腐剤を使用するメーカーもありますが、阪神ソースは値段ありきの考え方ではなく、ソースを口にする人への健康配慮と感動を提供するできるようなソースを作っています。

時代が流れる中で変化するソースの中でも、製造釜の底から直火でソースをつくりあげる製造方法は創業以来変わることなく、ソース原点の素材の本質を最大限に生かした深い味わいを私たちは手に取ることができます。

例えば、5年前に創業者・安井敬七郎氏の名前からネーミングされたソース敬七郎』は原点に立ち返り、明治時代の創業当初のレシピを参考に保存料、添加物や旨味成分も入っていないソースで、野菜、砂糖・塩の調味料のバランスで出来ている、ソース本来の姿だと言えます。

食べた後の後味の良さから高齢者の方にも食べやすいソースとして好評でソースが活躍する揚げ物だけでなく、野菜とも愛称のよいまろやかな味わいで、従来の百貨店や高級スーパーのような店頭販売以外に電話・FAXによる遠方からの注文も増えています。商品の品質からクチコミでファンが増えていると言えます。


価値ある商品・ブランドで神戸を盛り上げたい!


阪神ソースの創業者・安井敬七郎氏は創業当時、西洋の文化と情報の玄関口であった明治時代の神戸と言う街で、まだ多くの人が知らない調味料ソースに情熱を注ぎ事業を始めました。

その情熱と思想は代替わりしてもゆるぎない企業アイデンティティとして、敬七郎氏の血脈である現社長の安井洋一様とその後子息である開発室の安井元彦様の両名に受け継がれ、代々受け継がれると思います。

神戸は本当に良いものを大切にする街の風土があり、神戸が誇れるブランド・商品を生み出し続けてくれると思います。
『敬七郎』の他にも阪神ソースから用途に合わせたソースが販売されています。

いずれも作り手が情熱を注いで出来た素晴らしい逸品です。




是非このブログを読まれた方はお試し頂きたいと思います。
ソースに誇りを持った作り手から、丁寧に梱包されたソースが皆様の食卓に届きます。



【阪神ソース株式会社会社概要】
■社 名:阪神ソース株式会社
■創 業:明治18年(1885年)
■設 立:昭和23年
■住 所:神戸市東灘区本山南町1-1-1
■電  話:TEL 078-453-1111 
      FAX 078-453-1113
■E - Mail:info@hanshinsauce.jp
■URL   :http://www.hanshinsauce.jp/ 
■代表取締役:安井洋一

■編集後記

取材終了後、安井社長様より『敬七郎』と『SUNRISE SAUSE』を頂きました。

「『敬七郎』はチキンカツ、『SUNRISE SAUSE』はカキフライに最適!」

とアドバイスを頂き、仕事終わりにチキンカツとカキフライを行きつけのスーパーで購入して早速に夕食で実践してみました(笑)。
食べた瞬間

「ソース旨っ」

って言ってしまいました(笑)。カキフライはタルタルソース派でしたが、カキフライに愛称抜群のソースで私の家族にも好評でした。
で・・・一人で食べてしまい社内から非難轟々でした(笑)。今度買って社内で試食会です(笑)。

料理専門家ではないので、旨く表現できませんが、今まで食べてきたソースとは違います。
ソースたっぷりで食べたくさせるソースです。是非お試しあれ!!




Posted by KOCO2010 at 22:32Comments(4)ソース発祥物語
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